大好きなぺドゥナが心を持ったlovedollを演じる
是枝裕和監督の「空気人形」。

宣伝用のポスターの写真に使われている、
フワリとした透明感いっぱいの写真のイメージだけで見に行くと、
予想外の内容の生々しさや残酷な展開に、好き嫌いが分かれる作品かもしれません。

でも私の場合は、ど真ん中。
悔しいけどやられました!
大好きです!


まずはとにかく主役のぺドゥナに拍手!

彼女無しではこの映画は成立しない。
そう思わずにはいられない程の素晴らしさ。
さらに、彼女にここまでやらせた是枝監督の凄さ。
作り手として、物凄いジェラシーを感じずに入られなかった!
(私がこんなこということ自体、全然、おかしい話なんだけど、ぺドゥナのファンとしてどうしても~。)

あぁ、是枝監督は、本当に巨匠になっていくんだなぁ~。

今まで、全作品を見てきているけれど、
今回の『空気人形』で、なにか突き抜けた感じを受けた。

是枝さんは、きっと凄くシャイで冷静で、謙虚な人なのだと思うのだが、
今までのどの作品よりも、自分をさらけ出して作り上げた映画の気がするのだ。

(以下、若干のネタばれありです)


『空気人形』は、とても感情的な映画だった。
いままでの是枝さんの映画は、どこか被写体から一定の距離を保って、
冷静さを失わない視線で貫かれていた気がする。
それは、カメラマンの自在なカメラワークに寄る所も大きいかもしれないが、
今回は、主人公の空気人形に監督が物凄く寄り添って、
彼女の心の目で世界を見、歩こうとしていた。

そして、この映画のクライマックスでもある
「心を持ってしまった人形が、好きになった人の息で膨らませてもらうことで、満たされる」
ものすごく官能的な独創的なセックスの描写。
こういうメタファーとしてのセックスを描こうとするところが、
是枝さんの映画作家たるところだと思う。


人は自分ひとりでは、満たされることが出来ない。
人は元々誰か、別の誰かを必要としている。
一人では満たされないから、誰かを捜し求め、つながろうとする。


空気人形は、純一の吹き込んだ息によって、心身ともに満たされ、
これ以降、誰にも空気を入れられないようにと、ポンプをゴミ捨て場に棄てる。
そうすることで、たった一度きりの命をまっとうしようと歩き出すんです。

映画は、心を持ってしまったlovedollの、
はかなくも切実で、美しくも残酷な一生を描き、静かに終わります。
でも、この人形の短い一生に触れた幾人かの人たちの心に、
小さな命の息吹を残して死んでいくんです。


この映画を見終わったあと、
私の場合は、どんな形で満たされたことがあるだろうか?
そんな事を考えました。


私の場合は、元々頭でっかちなのかもしれませんが、
好きになった人が私に向かって発した「言葉」だなあ。

それは、自分の事を深い部分で理解してくれている言葉だったり、
そのとき私がぶち当たっている問題を解くキッカケを与えてくれる言葉だったり、
自分ですら気づいていなかった、私の真の姿を見破る言葉だったり・・・。

37年間の人生での数少ない恋愛経験で、何度かそういう「言葉」をもらい、
その後の自分の生きかたに大きな影響を受ける出会いが、私にもあったんだなぁ。
そんな言葉の数々を、この映画を見た後に、思い出させられました。

そして反対に、今私は、誰かを満たすことが出来るのかなぁ、出来ているのかなぁと。


この映画を作ることは、監督の是枝さんにかってないくらい自分をさらけ出させたと思う。
同時にこの映画を見ることで、観客は、自分の物凄い私的な体験を、思い出さずにはいられない。

そういう映画だとおもいます。
残酷で厳しいけれど、もの凄く繊細で優しくもあると思う。

















最近、周囲で結婚や出産と言う話題が多くなってきた。
もう10年以上前に結婚している私からすると、
やっと、友人達が自分と同じ人生のステージに上がってきてくれたわ!と言う心境。


でも、そういう後輩?たちは、マイペースな私をどんどん追い越して、
しっかりとした家庭を守る妻となり、子供を生み、母になり、
中には仕事を変わらず続けている人もいるけれど、
やはり結婚後の女性の生きかたって、男性と違ってストレートには行かない。


皆、それぞれに悩みや不安もあるだろうけど、
自分の生活と折り合いをつけながら、
何とか楽しくやっているんだと思う。


中でもやはり、
女性の人生の大きな比重を占めるのって、
出産と子育て(これを経験するかしないかも含めてね)だと思う。


最近、少子化が叫ばれている所為か、
子供を産み、母となることは素晴らしい、と言う類の言葉を良く聞く。
これ自体は、悪いことではないと思うんだけども・・・。


巷では、妻となり、母となった後も、女性としてキラキラと輝いているとされる、
素敵な暮らしや仕事をしている有名人女性たちのライフスタイルが溢れている。


でも、その褒め称えられ方は、
少し前までは、結婚しても、男と同等に働くことがカッコいい女の生きかただと、
賞賛されて、憧れられていたのと表裏裏表と言うか、
ひどく軽薄で乱暴な思考の表れだよなぁとおもう。


今、巷で憧れられ、流行し、褒め称えられている女性の生きかたも、
また少し時間が経てば、簡単にひっくり返されて、
またその時代その時代の新しい、『素敵な生きかた』が生まれるように思えてならない。


だって自分達の母親世代は、もっとしっかりお母さんや妻をやってきていますからね。
当時は、それが当たり前で、そんなこと誰も褒めたり、称えたりしてこなかったのだけど。
もちろん、そんな彼女達の生きかたを、今の時代のあたし達がそのまま出来るわけが無い。
多くの人がやりたがらないでしょう。

でも、そんな何百万人のごく普通のおばあちゃん、おばさん達の凄さに比べたら、
現在のセレブ・ママたちの軽薄さ、自分中心さって言ったら無いんじゃないかな?





私が言いたいのは、
一人一人が、自分の置かれた環境と人間関係の中で、
精一杯、自分らしく生きれば十分なんじゃないか、と。

そして、子供は親のアクセサリーではないぞ!



だから、最近、「女性として、妻として、母として・・・」云々と

キャッチコピーをつけられて得意がっているように見える有名人や、
自分の素敵な生活を切り売りして稼いでいるセレブ達、
そんな彼らを、商売のネタにしているマスコミには、ひどく胡散臭さを感じる。


きらきらと華やかに輝くママ達の笑顔の影には、

夫や自分の経済的な余裕はもちろんのこと、
周囲の人間の献身的な支えや、
自分を十分省みてもらえない子供達のさみしさが透けて見えてきてしまうから。


本当は、そんなことわざわざ、キャッチにしなくても、
素敵な人は素敵なんだ!!


何時も何時も、そういうわけには行かない時もある。
しゃかりきに、戦わなければいけないときもあるけれど、

出来るだけ、人として、自然体の自分を見失わずに、柔らかくありたいなぁ~。

と思う今日この頃です。







中村敦夫、69歳。
俳優・小説家・脚本家・テレビキャスター・政治家、として知られている。

中村は、人生の節目節目で、常に新しい仕事にチャレンジし、一つ所に留まることなく邁進してきた。

これ程多彩な肩書きを、一人の人間が持っているのは稀有なこだ。
しかもどれ一つとして、半端じゃなく、ずべて真剣勝負で臨んできた。

中村のこの波乱万丈な生き様を決定づけたのは、
1972年、時代劇「木枯し紋次郎」への出演だった。

市川箟監督監修の「木枯し紋次郎」という大ヒット時代劇で、
主演の渡世人・木枯し紋次郎を演じ、
当時32歳の新人俳優、中村敦夫は一躍スター俳優となった。

無宿の渡世人・木枯し紋次郎と、同じく一匹狼で一つの場所に留まることをしない、中村敦夫。

中村敦夫にとって、木枯し紋次郎とは一体なんだったのか?
そしてその後の中村にどのような影響を与えたのか?

大ヒット時代劇『木枯し紋次郎』をテーマに、
中村敦夫が人生を語りつくすインタビュー番組を作りました。

渋い番組ですが、時代劇ファン、紋次郎ファン、そして中村敦夫ファンの方はもとより、
紋次郎を知らない、お若い方々にも、人生に迷っているそこのあなたにも、
見ていただければエネルギーをチャージしていただけること請け合いです。

中村敦夫さんが本当に素敵です。

時代劇専門チャンネルで、
10月2日より、11月まで繰り返し放送します。

詳細はこちらで。
http://www.jidaigeki.com/prog/002547_000.html

木枯し紋次郎のハイビジョン放送もこちらで。
http://www.jidaigeki.com/special/0910_1/

HD化されたことで、市川監督の映像美のこだわりへの真価が味わいつくせるはず!!




家族の農業熱が加速し、
自給自足もまんざら夢では無くなって来た今日この頃。

しかし野菜ばかりで色気の無い我が家のガテン系の畑に少しでも彩をと、
サルビア(紫)と千日紅と言う可愛らしいお花の種をまきました。
それから薬味大好き人間として必要不可欠な青紫蘇も追加で。

でも種まきの時期が若干遅くて(本当は4月から6月)、ちゃんと発芽するのか心配。
毎朝、起きるとまず畑を覗き、
土に水気が足りてるか、もしや芽が出てきてはいないか、どきどきしています。

今まで園芸なんてこと、興味なかった私ですが、
実は祖父は元プロの皐月職人で都知事賞の常連、
母は生け花とフラワーアレンジメントが趣味と言う血筋(大げさですが)。

生き物相手である園芸の大変さを身近に知っているからこそ、
今まであえて手を出さなかった、と言うこともまんざら嘘ではありません。

でも、園芸や農業をやるには打ってつけの場所に住んで12年以上。
そろそろ本格的にやっても悪くないかなぁ・・・。

何しろ、最近草むしりするのが気持ち良くて。
無心になれるんですよ、草むしってると。
余計なもやもやした気持ちが空っぽになると言うか。
見た目に成果がはっきり出るから、小さいことだけど、達成感があるし。
それから大好きな詩人の伊藤比呂美さんの影響で、雑草の生命力に感心したりもして。
とにかく自然は24時間休み無く活動しているわけですから、日々刻々と変化があるんですよね。

そんなことしてると当然、日焼けして黒くなりまして。
久々に会う映画関係の友人には、「日焼けしてますね、現場ですか?」って言われて
「いえ・・・、庭仕事で。」と、答えるのに少し間が開いてしまう私です。
まだまだですな・・・。

で充電中ということもあり、最近は色々と映画や舞台も見ているけれど、
園芸ほどワクワクさせてくれる作品は、残念ながら少ないです。


『グラン・トリノ』(イーストウッド)

・・ラストで図らずも泣いてしまった。
  でもイーストウッド作品では他にもっといい作品があると思う。


『ディア・ドクター』(西川美和)

・・八千草薫の凄み、存在感だけでも見る価値はある。
  秀作だけど優等生過ぎるのが欠点?


『USB』(奥秀太郎)

・・桜のイメージが美しい。この題材に取り組んだ意気込みは買うが、
 「愛の進化論」と言うキャッチコピー、はたしてそこまで描き尽くせているのか?


『ウルトラミラクルラブストーリー』(横浜聡子)

・・映画のパワーは前作「ジャーマン+雨」の方が勝っている気がする。
  青森の風景の中の、松ケンの生命感溢れるアクションシーンは◎、心動かされた。


『あたしちゃん、行く先をいって』(舞台、地点)

・・・阿部聡子さんがラスト辛そうだった。


『歩いても 歩いても』(是枝裕和)

・・・こういうのは日常の中でうんざりするほど味わっているからなぁ・・・。


『ヨコハマメリー』(中村高寛)

・・・裏ヨコハマの戦後史を垣間見る。
  メリーさんが最後、元気な姿を見せてくれたので救われた。


『地下道』(キシェロフスキ)

・・・地下道のウィンドウディスプレイと言う舞台設定が面白かった。


『初恋』(キシェロフスキ)

・・・巨匠の修行時代。ドキュメンタリーの中にドラマ性を取り込んで。










吉祥寺にいた頃、大好きだった喫茶店。
中道通りの3番地にあった店。
急に「閉店します」の張り紙に悲しかったけど、
1年ぶりに鎌倉の路地裏で、
またあの美味しいコーヒーの飲める店として復活していたのだ。
偶々コンビニで立ち読みした雑誌の鎌倉特集で知った。

「えぇぇっ!」と声が出た!
学生時代、大好きだった人の消息を知ったように、
懐かしく嬉しかった。

行きたくてたまらなくなり、
住所を携帯にメモしていて、やっと昨日、
夫の海に付き合った最後のご褒美として夫婦で始めて訪れた。

江ノ電、長谷駅から徒歩2分くらいの住宅街の中に、
その店はあった。

民家を改装した素敵な雰囲気、
使っている家具やインテリアは吉祥寺時代のものを再利用。

マスターも相変わらず。
無愛想だけど、嬉しそうにコーヒーを入れる姿に、
こっちまで嬉しくなってくる。


香り良く、飲んで思わず「・・・美味しぃ!」と驚きの声の出る、
カラダにじんわりと染み渡るような、三番地レギュラーブレンド。
以前食べて凄く美味しかったチョコレートケーキの味も変わらず!

マスターの人柄や生き方がにじみ出ている。
普段はこういう店に入る事を金の無駄だと思っている家の旦那も、
注文したノワール・ブレンドを満足げに飲みながら、私のケーキをつまむ。

ここのBGMは、やはりジャズ。
マスターお手製らしき真空管と木製のスピーカーから、
温かみのあるかこいい音が店を満たす。

遠いけど、あのコーヒーと、
あのお店のかもし出す緩やかな時間を味わうために、
またふらりと通ってしまいそうだ。





当てにしていた仕事が、流れそうである。
かなり準備をしていたので、本当に悔しい。
でも、冷静に考えれば、余りにも幸運過ぎる話だったのである。
分不相応のチャンスは、大人の都合で簡単に無かったものにされる。
こうなったら、どんな事にもゆるぎなき自分の分を、磨くしかない。
誰の力も借りずに、自分で、道を切り開くしかない。

グーグルで検索中に引っかかったお言葉。

「人間の特性を探る研究に、アウシュヴィッツという過酷な状況のなかで「愛」「美」「夢」のいずれかを持続した人が生き残った、と結論付けるものがある。

以下は、その研究を紹介した佐久間章行著『人類の滅亡と文明の崩壊の回避』p.218-219からの引用。

第二次大戦の勝利者である連合軍は、あの過酷なアウシュヴィッツの環境で最後まで生を維持させた人間の特性に興味を抱き調査団を組織した。
その報告が正確であるならば、生命の維持力と身体的な強靭さの間には何の関係も見出せなかった。
そして生命を最後まで維持させた人々の特性は次の3種類に分類された。

第1の分類には、過酷な環境にあっても「愛」を実践した人々が属した。アウシュヴィッツの全員が飢えに苦しんでいる環境で、自分の乏しい食料を病人のために与えることを躊躇しないような人類愛に生きた人々が最後まで生存した。

第2の分類には、絶望的な環境にあっても「美」を意識できた人々が属した。鉄格子の窓から見る若葉の芽生えや、軒を伝わる雨だれや、落葉の動きなどを美しいと感じる心を残していた人々が最後まで生存した。

第3の分類には「夢」を捨てない人々が属した。戦争が終結したならばベルリンの目抜き通りにベーカリーを再開してドイツで一番に旨いパンを売ってやろう、この収容所を出られたならばカーネギーホールの舞台でショパンを演奏して観客の拍手を浴びたい、などの夢を抱くことができた人々が最後まで生存した。」

「愛」「美」「夢」

大げさだと思うかもしれないけど、本当に人を生き生きさせられるのは、この三つだと思う。

自分から自分の夢は捨てまい!




今日の「わたしが子どもだったころ」は、
俳優の宇梶さん。

映像がおそらく24P?、少し被写界震度の深い画面。
フィルターかけて?色味がいつものテレビのハイヴィジョン画像と違う。
ドラマ部分が、ゆらゆらとステディカムっぽい、不安定な画面で、
主人公の少年の心理を代弁している。

そして大人になった本人が、ドラマでも使われている昔住んでいた団地を訪ね、
当時の事を思い出しながらインタビューに答えている。

座りのかっちりしたインタビューではなく、
ディレクターの質問に答えながら、
当時の家や公園をフラフラと彷徨う様は、
ドラマとの相乗効果、成功していると思う。
現在の宇梶さんの周囲の風景や人、子供とドラマとのカットバックも、
過去と現在を行き来する気持ちの触れ幅みたいなものを感じさせて上手いと思った。

ただし、インタビュー宇梶さんの顔のアップばかりなのが息苦しく感じた。
もっと引いたアングルがあってもいいかなと。
あと惜しむらくは、キャスティング。
肝心の宇梶さんの少年時代の役者さんが、
宇梶さんとつながらない。
お姉さんは良かったが。

あと、年齢でしょうがないのだが、
二人に俳優を分けたのも、
主人公のキャラクターが分裂してしまって、
短い中で、統一感に欠けた。

二人使うならば、やはり繋がる子を選ばないと・・。

お母さん役も、うーむ、今ひとつかな。
(全体にお芝居が皆固いなぁ。)

そして一番の違和感は、現在のお母さんのインタビューを入れたこと。
あの程度のことしか聞けなかったならば、
写真と、近況、お母さんのコメントを文字で入れたほうが、
もしくは声だけとか、のほうが絶対に効果的だったと思う。

何か、生々しく今のお母さんが出てきて、
そのあと同ポジで、宇梶さんのお母さんのことのインタビューで、
ここだけ妙に浅いと言うかテレビっぽいと言うか、何でも見せれば良い訳ではないんだよな。

ドラマの世界が余計に遠くなって、白々としてしまった。
本物と偽物を同時に出すことの難しさだ。